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久しぶりのブログ。


ハンガリーへ来てはや5年が経つ。


今回は僕がハンガリーへ来て一番影響を受けた人物であるウングヴァーリ・ミクローシュ氏の話。

ウングヴァーリ・ミクローシュ「通称ミキ」はHungaryのPest県にあるCeglédという町で生まれ育った。

姉4人、弟5人と綺麗に別れたその真ん中で10人兄弟の5番目として生まれる。

彼は幼い頃から体を動かすのが好きでサッカーや水泳、ボクシング等様々なスポーツを体験し10歳の時に柔道と出会った。


ミキ自身は相手と闘うことが好きで乱取りや試合、稽古中においては手を抜くことが嫌い。
思いっきり力を出し切ってインターバル時間も自分で決めた時間は必ず守る。


まさに自分に厳しく他人に優しいという言葉が当てはまる様な人物だった。


勿論稽古中は他人にも厳しいが、それ以上に自分が模範となりこの30年間の柔道人生は国内のクラブ内外含めいつも後輩達に見本を見せてきた。

現在90kg級のハンガリー代表であり東京五輪銅メダリスト、過去に世界選手権で銀、銅のメダルを獲得した私の同級生であるトート・クリスティアーン。

彼は幼い頃からミキから組手や試合前に臨む時の気持ちの持ち方を教わり、大きな影響を受けた人物の一人。


僕がそんなミキと初めて出会ったのは今から5年前に遡る2017年の4月の下旬頃。

話が少し逸れるが僕は現在、ミキの生まれ故郷であり彼が柔道人生を生涯全うした町であるCeglédにある柔道クラブで2018年から4年間柔道指導をしながら今年からシニアナショナルのアシスタントコーチを勤めてる。

月、金、土曜日はクラブチームで指導をし火水木曜日はナショナルで国内を転々としながら活動をしている。

ナショナルでの合同練習がない場合は丸々1週間クラブで指導をすることも。

僕は現在に至るまでCeglédで柔道指導をさせて頂いているのだがハンガリーへ初めて渡った2017年は別のクラブチームで指導をしていた。

そのクラブチームの選手達と僕は4月の下旬に初めて国内の選手達が集まる合同練習に参加。

整列後のウォーミングアップのランニングで背筋を伸ばしながら一直線にこちらへ走ってくる選手。

誰だろう?と思いながら見てるとミキだった。

「はじめまして。君が新しい日本人コーチ?」と声を掛けてくれた。

ミキは当時37歳になる年で現役選手としてはかなりのベテランとして試合にも出場してましたが、合同練習後に行われた欧州選手権では準決勝まで進出していた。

世界選手権3大会連続3位、ロンドン五輪では66kg級で準優勝。

欧州選手権では15年以上連続で出場しており7回の入賞、2回の優勝と3回の準優勝

まさに鉄人、ハンガリーの英雄と呼ばれる人である。

 

僕が初めてCeglédへ練習へ足を運んだ後の食事会

 

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またまた話が少し逸れる。


僕がハンガリーという国を初めて知ったのもロンドン五輪をテレビで観戦していたとき。


当時66kg級の日本代表の海老沼選手と共に表彰台に上がったのが決勝でジョージア🇬🇪のラシャ・シャフダトゥアシヴィリに敗れたミキだった。


その当時は「準優勝したこの国の選手は誰だろう」というくらいの気持ちでしか見ていなかった。

ハンガリー?聞いたことない。

イタリア🇮🇹っぽい国旗の国だなー。

調べてみるととても小さい国。美人が多い。

その程度の感覚で特に強い印象は受けなかったのですが、大学進学後に同い年で90kg級で世界選手権準優勝したハンガリー🇭🇺の若手が出てきた。

「ハンガリーかぁ。聞いたことあるけど柔道強いんだな。名前はコレ何て読むんだろ。トス?トス・クリスティアン?」


トート・クリスティアーンを初めて見たときにロンドン五輪で準優勝したあの選手と国旗を思い出した。

 

それからどんどんハンガリー🇭🇺という国を意識し始め、気づけばその地に足を踏み入れてミキやトス君と出会っていた。


2017年に勤めていたクラブチームを自主退職してミキがいる柔道クラブチーム、ツェグレード【Cegléd】へ移籍。


五輪選手や若手の有望選手が多くて稽古熱心という話を聞いて彼のいるクラブへ行くことを決めた。


余談だが、僕がCeglédのクラブへ移籍する手続きをする際にCeglédのコーチ達に

「僕がCeglédへ移籍することは皆に黙ってほしい。今いるクラブのコーチ達はまだ知らないし子供達にも知られたくない」と話をした。


コーチは分かった、と絶対に分かってない顔で答えると次の週に行われたU12以下の国内試合の会場でCegléd所属の子供が近付いてきて

「ねえ!僕達のところに来てくれるって本当!?」

と声を掛けてきた。


僕は彼に「その情報、誰から聞いたの?」と聞くと彼は

「昨日、ミキが練習の時に僕達にその話してた!」と答えた。


いや、ミキに言ってないし会ってないし…

というエピソードがあった。笑

 

そんなこんなでツェグレードでコーチをすることになったのだが僕が技の指導をする時に話を聞かずに友達同士でふざけてた若い選手達に
「お前ら、先生がお前達の為に一生懸命教えてるのに何で話をちゃんと聞かない? お前らそんなに偉いなら今ここに来ていまケンが教えてた内容やってみろ!」

と一喝。

僕がまだハンガリー語が分からずに指導に困ったり、注意がなかなか出来なかった時はミキや弟のアッティラが若い選手達に注意したり、指導した内容を一生懸命に取り組んでくれた。


冬場に行われる体力トレーニング合宿ではミキと二人で取り組んだのだが、彼はスクワットを500回してもメディシンボールを30分間投げ続けても、おんぶで畳三面30週走っても疲れる様子を全く見せない。


本当に40歳なのか?と疑わざるをえない。


自分よりも年齢が半分以上若い選手達はすぐへばり、弱音を吐く中で彼だけは黙々とメニューをこなし続けキツイときは雄叫びあげてる。

彼と一緒にトレーニングをしていた僕は最終的に両足の太腿裏が攣って昇天。
彼はその後もメニューをしていた。


何かを成し遂げた人はどこかネジが飛んでる部分がある。※良い意味で

 

 

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ミキについての小話は色々ある。

ミキがまだ10代の頃

サッカーのグラウンドをランニングで走っていたサッカークラブの選手をごぼう抜きにしてそれを見たサッカーのコーチが「誰なんだアイツは!?」と驚いていたという。


それから彼がまだ貧しくて車もバイクもなかった頃は自転車と電車を乗り換えしながら隣町へ行って、朝は2時間水泳のトレーニング、その後は休憩を挟んで柔道の稽古をし、終わったあとはトレーニング。それが終わるとまた柔道の練習をしてそこからまた電車と自転車で家まで帰っていた。

彼は欧州や世界で活躍するまではお金も無く、補助金や助成金も貰えなかった。

ミキが当時練習していた道場は刑務所とディスコバーのトイレに挟まれた最悪な環境だったらしい。


しかも当時在籍していたクラブ生は10人程でミキの練習相手はコーチ2人と練習生の1人だけだったという。


彼がどうやって今に至るまで地位と名誉を築き上げてきたのか、詳しい内容は分からないが言えることは人生を変えるために死ぬ気で今までやってきたということだろう。


彼は闘うことが好きで負けることが嫌い。


そしてそれは柔道だろうが遊びだろうが、自分の趣味であろうが自分がやると決めたことは最後まで手を抜かずに貫き通す。

彼は現在ハンガリー🇭🇺の男子シニアナショナルヘッドコーチだがコーチング歴が全く無いまま抜擢された。


勿論国内のクラブコーチ陣は「コーチしたことない人間がいきなりシニアのナショナルヘッドとか務まるわけない」と批判的な意見が多かった。


しかしそれでも彼は情熱と別け隔てなく老若男女問わず、稽古をする選手達に親身になって一生懸命コーチングをしている。


確かにコーチング能力はコーチとして必要不可欠だがそれと同じ、もしくはそれ以上に大切なのは見返りを求めない熱い気持ちと情熱。


彼はそれが他の国内のクラブコーチと比べても郡を抜いていた。


そんな彼だから柔道界だけでなくビジネスでも成功を収め、幅広い人脈を持っている。


余談だが柔道以外に彼は乗馬のジョッキーとしても活躍しており自宅には10頭の馬を飼育している。


柔道の現役中もジョッキーと柔道の二足のわらじを履いていて2~3ヶ月に1回はジョッキーとして乗馬の試合にも出場しており、現在でも試合へ出場したり遠征に行く時は国内外を飛び回ってる。


なのでジョッキーとしての人脈も広く、乗馬を通して他のジョッキーと親睦を深めたりそのジョッキーを通してまた違う業界で活躍している人間と仲良くなっている。


柔道、乗馬以外に

農業農家、モデル、猟師、飲食店、公務員、🇭🇺の洋服ブランド【DORKO】のモデル、テレビのゲストとしても定期的に招かれ🇭🇺のSASUKE版【Exatlon】に出演し、3ヶ月近く帰ってこないときもあった笑

僕は未だに彼の本当の職業が分かってない。

ウングヴァーリ氏の自宅の天井に作られた五輪マーク

現役時代は勿論柔道選手として生業を作っていたがミキが引退して暫く経った後に


「何が本当の職業なの?」と彼に聞くと

「自分でも分からない」と答えていた笑

 

※続きは次回に。長くなるので何回か分けて書きます。

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